4.O阪O大時代

1991年、大阪のO阪O楽大学が多分「大学」として初めてクラシック以外の学科を設ける、
ということで教員として呼ばれることとなりました。

人に教える、ということの難しさ、自己矛盾、大学という管理システム、
まぁストレスの日々。

自分の経験では、
ポピュラー音楽は入り口だけ教えてもらえれば、
あとは自分の力で切り開いていくものなんです。
何でもかんでも言われないと何にも出来ない、やろうとしない。
言われたこともやってこない。自分で判断しようとしない。

さらに、卒業してもこれだけの人間の数を受け入れる職場があるわけない。
ボクは一体どういう人間を育てようとしているんや?

すべては口約束とあうんの呼吸のバンドの世界しか知らない、
一般企業に就職したことの無い者にとって、
いわゆる役所仕事にきわめて近い事務処理は、イライラの極地。

15年やって自己崩壊

2度目の結婚がこの頃。相手はこの学校のクラシックの先生。
以前に比べて若干スローペースで生活することに違和感を感じなくなって来た頃。

Macintosh との出会いもこの頃。それまでの NEC PC-98 とか DOS-V とか全部売り払った。
ステージの生演奏に Macintosh 持ち込んだり (当時としては結構勇気のいることでした)、
手で書けば10分で出来ることを Macintosh で1時間かけてやったり。
その間に世のバブルは弾け、湾岸戦争は始まり、
かつての「腕さえあればナンボでも仕事はある」という状況にかげりが見えてき出したころです。
にもかかわらず、調子に乗って CD 作ったり
(まだ自費で制作する風潮が無かった頃)
家買ったり、
世間の状況が見えてるんだか見えてないんだか…。

で、21世紀。子供の頃輝かしい未来の代名詞だった21世紀。
現実は…。

この後は Over50へ。